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2016年4月25日 (月)

春の竹田城跡へ

Img_0081「竹田城跡」
昨年秋1度に訪れた(10月9日)
ブログアップ(10・14)

全国屈指の山城遺構
竹田城は 播磨・丹波・但馬の交通上の要地に築城
築城当初の姿は不明が多い
織豊期以降は 天守台を中央に置く石垣城郭となり本丸以下 南二の丸、南千畳、北二の丸、三の丸、北千畳を築いている
さらに 花屋敷という曲輪があり搦め手の位置になり 防御性の高い城郭となっている

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「北千畳」
登城道を登るとここへ着きます 眼下は眺めが良く城下の様子がはっきり見えます

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望遠で見ると南千畳の人の姿や動きが分かります 当時はどのような景色だったのでしょう

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本丸から南千畳を望む 大規模な城郭だったことがうかがえる

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石垣遺構の凄さに圧倒される

現地ガイドさんが要所要所に配置され 事故のないように見守りながら誘導
ガイドさん曰く
「この石からパワーを貰って下さいね」
素直に手を出す人もいた




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夏草や兵どもが夢のあと」 の句碑 (松尾芭蕉の句 南千畳の一角に建つ)

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「南千畳」
1本の桜 静かに城下を見守っている

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「天守台」 本丸
中央の一番高い位置に天守台がある 城の姿 城主や多くの兵が行き交う様を想像する
実際は想像を絶する戦国時代 城主も次々と替わり戦に明け暮れる日々 
長く続いた戦乱は 今から400年ほど前のこと 僅か400年で世の中がこんなにも変わっている 不思議さと怖さが入り混じったような気持ちになる この先一体世の中はどう変化するのだろう 歴史は人がつくるもの 一人一人が~!

兵庫県朝来市 4月12日撮影

竹田城跡へ 立雲峡 (朝来市)

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「立雲峡」
桜の竹田城跡を遠望しよう 写真クラブのメンバー17人で行く 昨年竹田城跡に来た時に撮影スポットのこの場所へ来たいと思っていた 早くも願いが叶った 
お天気はベスト 期待は大 ところが思いのほかキツイ勾配 しかもソメイヨシノは落花 遅咲きのオオシマザクラが見ごろだったのが救い といったところ  

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竹田城跡を眺望
登りながら立ち止まってはレンズを覗く 全容が見られるポジションまでもう少し頑張ろう

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オオシマザクラに癒されながら~!

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「第一展望台」の標識
ここからさらに登る

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第一展望台から竹田城跡を眺望
西に位置する竹田城跡・円山川と城下町竹田を眼下に望む 古城の天守台は標高約354m 峡谷は 朝来山(標高756m)の中腹に位置する 秋から冬にかけて雲海が見られることから「天空の城」と呼ばれる

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立雲峡は 無数の奇岩・巨岩・滝が点在する景勝渓谷です 「但馬吉野」といわれる山桜の名所で 毎年桜まつりが行われる 展望台は3か所あるそうですが 第一展望台で満足して下山 これ以上登っても期待はうすい 時間も足りない ここまで登った人も数人だった
出来映えは? 後日の談話 「やっぱり真昼間の光線、春霞のどんよりした空気、桜の時期が遅かった」等々 言い訳ウンチクを並べたて互いに納得(?)
下山して昼食 その後竹田城跡へ

兵庫県朝来市 4月12日撮影

2016年4月19日 (火)

茶臼山城跡 (岡山県赤磐)

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「茶臼山城跡」
1ヶ月前に下見に訪れ時には殺風景だった 
前日の春の嵐は花のジュータンとなり 周辺には鮮やかなミツバツツジ 予期せぬ変貌に感動し足取りも軽く本丸へ いざ参ろう (現在は公園となり模擬天守が展望台となっている)

茶臼山城跡については 3月8日記事にアップしています 標高約180m 築城時期は 天文年間(1532-1555) 吉井川本流と吉野川の合流地点で 備前東部と美作東部の接点にある 城郭の形態は当時として相当の警備をもつ代表的な山城です
関ヶ原の戦い(1600年)に西軍が敗れ 毛利氏が萩へ西帰するまで16年間在城した
江戸時代には備中池田藩が赤磐市周匝に一族で家老の池田伊賀守を配置し 陣屋を構えていた 天正7年(1579)宇喜多直家に攻められ廃城となる

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眼下に広がる城下

Img_3329桜祭り
2日後に桜祭りを控え ぼんぼりが取り付けられている












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本丸跡には 竪穴式住居が復元(右の円形屋根)と 移築民家(左正面)があります
この民家は 江戸末期に吉井川沿いの赤磐市河原屋に建てられた商家で 昭和初期まで吉井川を往来していた高瀬舟の舟宿でもあった その家屋を移築し当時の4分の1に縮小したもの
大型竪穴遺構  復元したこの遺構は 長径約9m 短径約7mの楕円形で 深さ4.5m
1.5m下がった所におどり場があり 底には長方形の床面があり この中からは炭・徳利・壺など 鉄製品(刀子・釘など) 陶磁器 青磁 白磁 天目 古銭(永楽通宝など)等 室町時代中期の遺物が出土した この甌穴は人が住むうえで十分な空間を持っているため 貯蔵も兼ねた居住施設であったと考えられる
また 戦国時代の城郭でこのような遺構の発見例は珍しく極めて重要な遺構です

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上から展望 大型竪穴遺構
中の様子


展望所内の階段に武士像 長い槍を構えた勇壮な姿 

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←池田家墓地「空のお塚」
江戸時代 岡山藩の家老として藩政を支えた周匝池田家(片桐池田)代々の墓所
茶臼山頂部および尾根上と 南東ふもと「新のお塚」からなります
「空のお塚」には 2代-7代のお墓  「新のお塚」には初代池田長政・8.9代のお墓があります

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「大仙山城跡」 戦国時代の山城の姿をそのままに形で残す
城跡の第2駐車場近くの登城口を入り 尾根伝いに進む 堀切や土橋・土塁を超えた 最後の急登の先の平坦な主郭です 築城者は不明 防御施設の形態から戦国時代の終わりごろと考えられる 所要時間40分ほど(途中まで行くと 向こうに小高い山が見えた その頂上では?)
この城は 天正5年(1577)に 主君の浦上宗景を天神山城で落とした宇喜多直家の北侵に対抗するものと考えられる

この後 「ドイツの森」へ向かう

岡山県赤磐市 4月8日撮影

2016年4月15日 (金)

彦根城・長浜城の桜めぐり(7)  end

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「長浜城」
彦根城から琵琶湖沿いに北へバス移動すること1時間弱 満開の桜と天守がすぐ目前にそびえる 現在の長浜城は 昭和58年(1983)に再建 「市立長浜城博物館」として開館
長浜城は 古くは今浜城といい 南北朝時代 足利尊氏の重臣、京極導誉の家臣今浜六郎左衛門が創築し その後 上坂氏が守将として在城した
天正の初め 羽柴秀吉が築城し 地名を長浜と改め 城下町を造り約7年間在城した 天正11年の賤ヶ岳の戦 (羽柴秀吉対柴田勝家)には ここを根拠地として大勝した

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天正13年-18年まで山内一豊は在城 慶長11年(1606) 内藤信成が入城し その子信正が元和元年(1615)摂津の高槻城に移ってからは廃城となる 建築物・石垣の大半は彦根城に移された

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天主からの眺望 南側 琵琶湖方面

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南方面 琵琶湖の向こう 右側辺りは彦根城・佐和山城跡 (手前に展望地図あり)

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北方面 遠くには 山本山(三角型の山)・賤ヶ岳古戦場・小谷城跡

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東方面 姉川古戦場・伊吹山・関ヶ原古戦場 また石田三成出生地(石田町)
”姉川の合戦マップ” を入手 この地域を訪ねてみたい気持ちになった(!)
姉川の合戦」とは 元亀元年(1570) 浅井長政・朝倉景健の連合軍(18.000人)と織田信長・徳川家康(29.000人)の連合軍が 長浜市を流れる姉川の両岸で壮絶な合戦を繰り広げた 合戦は午前5時に始まり午後2時に終わった 結果は織田・徳川連合軍の勝利
多くの死者が出たと伝えられ この地に残る血原・血川といった名は当時の激戦の様子を物語っている この他 信長本陣地など多くの史跡が残っている

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南側 眼下に「豊公園」 琵琶湖の向こうには 佐和山城跡・彦根城

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「旧長浜境界碑」
長浜は 秀吉によって特別に町屋敷の年貢米300石を納めることを免ぜられた
この特権は徳川幕府にも認められ 他地域と区切るための石碑が 江戸時代初め長浜町のまわりに30数本建てられたといわれる
今は10数本あるだけで元のちにあるものは数本
秀吉のもうけた長浜の年貢免除の範囲を知るうえで貴重な資料といえる
この碑は「これより東 長浜領・これより南 長浜領」と記され もとは長浜町の西北隅に建っていたと思われる

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「長浜城石垣根石」
復興天守入口の近くに かっての長浜城に使われていた石垣の根石が展示されている
石垣は彦根城に運ばれたのですが 石垣の礎石として一番下に積む礎石は地下に埋もれていたため残されたそうです

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駐車場に近い豊公園から入ったが こちらが正面 石碑と案内板は石段の袂にあります

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長~い1日旅は終わった 濃い充実した時間でした 桜を愛でながら二つの名城を訪ね 戦国時代の群雄たちの足どりを展望台から眺めることができた こうしてその地を訪ねることでより深く知ることができたように思う 但し それも時間の問題かな? 
今後も湖北をめぐる機会をつかみたい もっと見たい知りたい!

長浜市 4月3日撮影

彦根城・長浜城の桜めぐり(6)

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「玄宮園」
城の北東にある大名庭園で 中国の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんで選ばれた近江八景を模して造られた縮景園 第4第投手直興が延宝5年(1677)に造営した
江戸時代初期の庭園を現代に伝える名園です 池に突き出すように建つ臨池閣、鳳翔台といった建物 広大な池泉 変化に富んだ回遊式庭園となっている 四季折々の風情を大名気分で味わうことができる



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「鳳翔台」 茶室
園内の築山にある数寄屋建築 できればここで薄茶を味わいながら鑑賞したかった が 時間が気になり断念 ちらりと見ながら通りすぎる

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屋形船
江戸時代の絵図面から復元したお殿様の専用船でお城めぐり 水面から桜を愛でながら 石垣や櫓の美しい風景を眺めることができる
無事に”いろは松駐車場”へ向かう 贅沢な風景に酔いしれた さあ終盤戦は「長浜城」へ

彦根市 4月3日撮影

2016年4月13日 (水)

彦根城・長浜城の桜めぐり(5)

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「西の丸三層櫓」
本丸の西側一帯を西の丸と呼び その一番端にあるのが三層櫓です 10m以上の高い石垣の上に築かれている 1階の続櫓を「く」の字に付属している 小谷城天守を移したと伝えられている三層櫓には 天守のように装飾的な破風などはないが 櫓全体を総漆喰塗りとし 簡素な中にも気品ある櫓です
  ↓  櫓の中へ侵入 ここは1階入り口 2階3階へと狭い階段を上ります

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三層櫓 三階からの眺望
天主へは登れなかったのでここからの眺めを楽しむ 
桜~桜 桜酔いしそう
”うん 実に良い眺めじゃのう”
どこからか聞こえてきそう






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「大堀切と出郭」
西の丸三層の外には 裏手からの侵入を阻止するため 屋根を断ち切るように大堀切が設けられている
大堀切にかかる木橋の外にあるのが「馬出し」の機能をもった出郭です
この出郭の石垣は 石工集団として知られる穴太衆(あおのうしゅう)が築いたと伝えられる


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「黒門橋」
三層櫓を出て 山崎山道を歩いて黒門橋に出ます 内堀の桜並木を眺めながら「いろは駐車場」方向へ

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「井伊直弼生誕地」 槻御殿(けやきごでん)
第4代藩主井伊直興が延宝5年(1677)に着手し 同7年に完成したもので 下屋敷として築造され 木材は槻(ケヤキ)でその華麗さは各大名も驚嘆したものです 大老井伊直弼は 文化12年(1815)10月25日ここで生まれた
これらの建物は数棟の東屋よりなり 今日に至るまでしばしば修理が加えられたが 往時のおもかげをとどめている 第12代井伊直亮が文化年間(1804-17)に楽々之間を増築して以来 「槻御殿」という正式の名よりはむしろ「楽々園」の名の方が有名になった

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楽々園の建造物は修理中のため見ることがなかった 28年度完成となっていた
いつか見られる日を楽しみにしよう
さて 次は名勝といわれる「玄宮園」を巡ってみよう

彦根市 4月3日撮影

2016年4月11日 (月)

彦根城・長浜城の桜めぐり(4)

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「天守閣」
いくつもの屋根方式を巧みに組み合わせた美しい曲線の調和をみせ どっしりとした牛蒡積と呼ばれる石垣の上に三階三層の天守がそびえる 京極高次が築いた大津城から移築されたといわれ 慶長12年(1607)頃に完成した
昭和27年国宝に指定 姫路城・松本城・犬山城・松江城とともに国宝五城の一つです

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「着見台」(着見櫓跡)  天守閣のある本丸 東端の突き出た場所にある
眺望の良い当地には かって9.8m(5間)に10.6m(6間)の二階櫓があり着見台と称していました 眼下の城門佐和口及び京橋口の看視に当たるとともに 遠く中山道から分岐して佐和山を越え 城下に入る切通道(彦根道)を望みました 明治初年に櫓は取り壊され 今日では展望台として多くの人々の目を楽しませています(案内板より)

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着見台から 城壁と桜 琵琶湖を眺望

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着見台から見た「佐和山城跡」 手前のこんもりした山(琵琶湖は西 佐和山は東)
佐和山城は石田三成が 五層の天守をもつ立派な城を構えていたと伝えられる
佐和山城の歴史は古い 鎌倉時代初期 近江源氏 佐々木定綱の6男時綱が 佐和山の麓に館を構えたのが始まりとされる
信長・秀吉の時代にも 近江の要衝を守る城として重視 信長は丹羽長秀を配し 秀吉の代も 堀秀政、堀尾吉春そして五奉行筆頭の石田三成の入城 と佐和山に重きを置く姿勢は変わらなかった 三成の時代には 二の丸 三の丸 太鼓丸などが連なり 侍屋敷・足軽屋敷・町屋などの城下町が形成されていた

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着見台から見た天守閣
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで活躍した徳川四天王の一人 井伊直政は 戦後 敵将石田三成の居城の佐和山城(彦根市)と近江国北東部の領地を与えられ 彦根藩の初代藩主となった 直政は新たな居城の築城を計画したが 関ヶ原の戦いで負った戦傷を悪化させて慶長7年(1602)に死去した
井伊直政の長男 井伊直継が1603年に築城を開始 1606-1年ごろに天守が完成した(城郭全体の完成は1622年) その後の廃城令にも 大隈重信が視察に来た際 その焼失を惜しみ 明治天皇に上奏し破却を免れたといわれている

彦根市 4月3日撮影

彦根城・長浜城の桜めぐり(3)

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天秤櫓からの眺め 桜が一層華やかに見えます 人もはっきり 敵の動きは丸見え

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天秤櫓があるのは彦根城だけ
戦うための城です

戦いがなくなった平和な時代
日本列島桜を愛でる人の流れ
そのことに気づかされる場所
歴史は人が作るもの
そのことにも気づかされる





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「時報鐘」と「聴鐘庵」
この鐘 12代藩主井伊直亮の弘化元年(1844)に鋳造したもので 当初鐘の丸にあった鐘の音が城下の北の隅に届かなかったので現在地に移した 現在は午前6・9時 正午・3・6時と1日5回ついている
大老井伊直弼は禅の精神と相通ずる茶道にひかれ 自らも「宗観」(むねみ)と号し 修行をつづけた 大老の著「茶の湯一会集」に書かれている「一期一会」の茶道精神は有名です この精神をしのび 時報鐘の管理棟を改造した聴鐘庵で薄茶の接待がされています
(左端に少しだけ見えるのが聴鐘庵です)

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「太鼓門櫓」
本丸への最後の関門である太鼓櫓は 東側の壁がなく 柱の間に高欄をつけ廊下にしている
登城合図用の太鼓の音を響かせるために考えられたのではないかと言われている

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「天守」
どうにか本丸まで攻略できた 時間にして20分 ところが天守に登る人の行列は ”30分待ち”  う~ん無念! 天守の攻略ならず 気持ちを切り替えて桜を愛でながら城内をゆっくり散策することにした

彦根市 4月3日撮影