フォトアルバム
Powered by Six Apart

四国お遍路記 Feed

2012年3月24日 (土)

高野山へ報告参り

Img_4811
Img_4849宿坊

恵光院
毘沙門堂

Img_4856





早朝

護摩祈祷



大門(左)
一山の総門 法橋運長作の金剛力士を左右に配した 重層建築の山門 現在に建物は1705年に再建されたもの

Img_4898









大師教会
全国の大師信徒を対象とした伝道布教の中心となるお堂 全国の大師教会の総本部

Img_4940















金剛峯寺
高野山弘法大師御廟を信仰の中心として結成された高野山真言宗3600ケ寺 信徒1000万の総本山の名称として知られている
Img_4942


















御廟(ごびょう)
弘法大師入定の地であり 今も大師がおられる大師信仰の中心となる真言宗最高の聖地
ここでは毎日大師の食事が運ばれ 年に一度 御衣替えが行われます

Img_4946
Img_5003
























金剛三昧院多宝堂
















聖山 高野山は1200年前に弘法大師によって開かれた 真言密教の 全国に広がる高野山真言宗の総本山 標高900m 山の上の盆地に壇上伽藍と称する聖地があります そこには さまざまな堂や塔が立ち並び 参拝者を迎えます 老杉の茂る奥之院には 太閤秀吉から太平洋戦争の英霊まで 20万基を超えるお墓が立ち並んでいます

一度は訪れたことがある人は多いでしょう 3度目 といっても最初は40年も前 新たな心境で訪れる うっそうとした杉並みを歩いていると 清々しい空気に包まれて素直な気持ちになれる 老化した心身にはこの場所は良薬であり 早朝の静寂な参道は無に等しい境地になる
宿坊「恵光院」では写経を行い 夕方暗くなってから若い僧の案内で奥の院参道を歩く 歴史に名を残す人達のお墓の説明を聞きながら 長い参道をはぐれないように速足 暗い夜道の墓地を歩くのだから群から離れると怖い やはり修行が足りない 
翌朝 若い僧たちに見送られて出発 修行をしている若い僧はとても落ちついた表情をしている 毎日の修行の賜物なのか 人間は欲徳を少なくすると こういう落ちついた表情になるのかも知れない
四国遍路旅は無事に終り「結願書」をいただいた 忘れられない「心の財産」となるでしょう
歴史を感じながら整理したせいなのか この頃は神社仏閣を見ると関心を抱くようになった
「四国お遍路記」をご覧になられました方々に お礼申し上げます

和歌山県高野町 2010・9月撮影
  

2012年3月18日 (日)

霊山寺(りょうぜんじ) 一番札所へお礼参り

Img_3265





















Img_3289





お礼参りは一番札所へ
ここへ来て四国霊場を一巡したことになる(2009・4月~2010・7月 1・2月休 稼動14ケ月)
最初の札所はとても印象に残っている 初体験のことばかり  初めて唱える般若心経もたどたどしくついていけなかったことが 懐かしく思い出される
不思議な事に 一度だけ小雨に遭ったが好天に恵れ気持ちよく参拝できたこと 他の旅では味わえないお遍路の旅 達成感と感謝でいっぱい 9月は高野山への報告参りを行う

詠歌 「霊山の 釈迦のみ前に めぐりきて よろずの罪も 消え失せにけり」

徳島県鳴門市 2010・7月撮影 

2012年3月17日 (土)

大窪寺(おおくぼじ) 八八番札所

Img_3209






本堂













Img_3215
本尊 薬師如来  
山号 医王山
開基 行基菩薩







四国霊場八十八ケ所結願(けちがん)の「大窪寺」
徳島県の県境に近い矢筈山(標高782m)の東側中腹に位置する

Img_3217


元正天皇勅願寺 当地へ来錫した行基菩薩は霊感を得 持念された その後 唐より帰朝された弘法大師は奥の院で求聞持の秘法を修せられた さらに大きな窪の側に堂宇を建立 薬師如来像(等身大)を刻んで本尊として安置 そして所持された錫杖を納めて 当寺を八八番札所と定め 結願寺と定めた

Img_3208






















「真魚」は
弘法大師が幼少のころの名前

Img_3226
Img_3234

Img_3235













「宝杖堂」(左側)
大師が錫杖を納められたところと伝えられている




Img_3259_2

大師堂地下内陣

お砂踏み道場



















当山仁王門は四国霊場最大級のものである 正面13.2m 奥行6m 高さ13.5m(平成2年8月完成)
四国八八番札所全ての巡拝を終え 結願寺のあと 一番札所 霊山寺へお礼参り そのあと 高野山への報告参りを行います 
写真整理をしながら一ケ寺 一ケ寺回想 巡拝の時には十分知り得なかった弘法大師のこと また昔の人々の信仰の深さなど あらためてその力の大きさを感じました 社会が変わっても人間の心の中は基本的な部分は変わらない 「心のよりどころ」となる霊場札所は永久に続くことでしょう

さぬき市 2010・7月撮影

2012年3月16日 (金)

長尾寺 八七番札所

Img_3194






本堂









Img_3175本尊 聖観世音菩薩  
山号 補陀落山(ふだらくさん)  
開基 行基菩薩










仁王門
仁王像は大阪で造られ船で志度浦へ到着 当時は志度から長尾まで陸路がなく 長尾寺の住職だった名僧桂同法印が 仁王さんに向かって心の中で念じた 仁王像は法印の命ずるまま長尾寺まで歩いた という伝説をもっている
Img_3184


明治維新以後 本坊は学校や警察 郡役所などの公共施設に提供された寺 聖徳太子の開創と伝えられている 後 739年来錫した行基菩薩が霊夢を感じ 聖観世音菩薩を刻み小堂を建てて安置したことが始まりだという 





Img_3189


















「静御前得度の寺」
静御前が母の磯禅尼とともに得度したあと 髪を埋めたといわれる塚
源義経の没後 その愛妾であった静御前は 母の出身地(大内群小磯)の讃岐にやってきて 長尾寺で得度し「宥心尼」となった 歴史書「吾妻鏡」に静御前が登場している
Img_3200















「長尾寺経幢二基」 重要文化財

経幢は中国で唐から宋時代に流行したもので わが国では鎌倉中期ごろから造られ経文を埋納保存する施設 あるいは供養の標識として各地に建てられるようになった
この経幢は凝灰岩製で 基礎の上に面取り四角柱の幢身を立て その上に重厚な八角の笠と低い宝珠を乗せたものです

さぬき市 2010・7月撮影

2012年3月15日 (木)

志度寺(しどじ) 八六番札所

Img_2424_2本尊 十一面観世音菩薩
山号 補陀落山(ふだらくさん)
開基 藤原不比等

香川県東部の志度湾に面して建立される 推古天皇の御代園の子尼は漂着した霊木で十一面観音像を刻み 堂宇を建立した その後 藤原鎌足の子 藤原不比等が妻の墓を建立し「志度道場」と名付けた その後 行基が堂宇を拡張し現在の寺号に改名した 
また学問の道場として栄えた 能楽の作品「海士」の舞台としても語り継がれている














Img_2425










Img_2430
Img_2426






















Img_2437
























本堂







Img_2443




















五輪塔の形をしている「海女の墓」群

「海女の悲しい玉取り伝説」がある
謡曲「海人」・浄瑠璃の「花上野誉の石碑」(志度寺の段)の舞台にもなっている


1300年前 唐に嫁いだ藤原鎌足の娘 白光は亡き父の供養として3つの宝物を奈良の興福寺に贈る
しかし 宝を積んだ船が志度沖で 宝物の一つ(玉)が竜神に奪われてしまった 白光の兄 不比等は玉を取り戻すため身分をかくして志度を訪れる そこで一人の海女と恋に落ち 房前(ふさざき)をもうける 
数年後 不比等から素性と本来の目的を聞かされた海女は 「私が玉を取り返してきます その代わり房前を藤原家のお世継ぎにして下さい」
Img_2440と言い残し一本の命綱だけをたよりに海へ潜る しばらくして 海女からの合図で綱をたぐりよせると 海女は手足を竜神に食いちぎられていたが 十字に切った乳房の中に奪い返した玉を隠していた 不比等に玉を渡した後 海女はそのまま夫の腕の中で息絶えてしまう

「海女の墓」は 後に大臣に出世した房前が母を想って建てたものと伝えられている
肩にタオルをかけた女性は お墓の掃除・花と線香を供えに毎日来られているそうです
Img_2442



















高浜年尾の句碑(1900-1979)
虚子の長男 年尾は正岡子規が名づけた本名
昭和10年頃から俳句の道に入り 26年には「ホトトギス」雑詠選 虚子没後は主宰を継承 伝統派の中心作家として多くの俳人を育てた
「盆にきて海女を とむらう心あり」 昭和29年9月5日(旧盆16日)志度寺参拝のおりに詠んだもの このとき息女 汀子(現ホトトギス主宰)・京極杞陽(故人)が同道された 県内には他に善通寺と大窪寺に句碑がある

さぬき市 2010・6月撮影

2012年3月14日 (水)

八栗寺(やくりじ) 八五番札所

Img_2395





















Img_2400Img_2403
本尊 正観世音菩薩  山号 五剣山  開基 弘法大師


屋島の東 源平の古戦場をはさみ標高375mの五剣山があり 八栗山はその8合目にあり ほとんどの遍路はケーブルで登る 
827年弘法大師がこの山に登り求聞持の法を修され 満願日に空中より五柄の利剣が降り 金剛蔵王が示現 山の鎮護を告げられた 五剣山と名づけられた 大師はさらに唐へ留学する前に再度この山に登り 仏教が学ぶ念願が叶うかどうかを試すために 8個の焼き栗を植えました 無事帰国し 立ち寄ってみると 8本とも芽が出て成長していた それでもと八国寺だったが八栗寺に改号された
八国寺とは五剣山の頂上から 讃岐 阿波 備前なだ四方八国が見渡すことができた為だった

高松市 2010・6月撮影
























正面

歓喜天堂

Img_2415
















右が
本堂

Img_2402





















大師堂

2012年3月13日 (火)

屋島寺 八四番札所

Img_2339





















Img_2340





















Img_2346


















本堂



本尊 十一面観世音菩薩  山号 南面山  開基 鑑真和上

Img_2348_2
屋島は高松市の東 標高293mの火山大地の半島で 那須与一の扇の的や義経の弓流しなどで有名な源平合戦の古戦場などで知られる 天平勝宝6年 唐の国より和国に迎えられた鑑真和上(唐の学僧)が訪れたのが屋島山上 山上に伽藍建立の霊地なり と開創した その後 和上の弟子の恵雲師が堂宇を建立したのが始まりであり 恵雲師は第一代目の住職となった
815年には嵯峨天皇の勅願を受け来錫した弘法大師が北嶺にあった伽藍を現在の南嶺に移し 十一面観世音菩薩を刻んで本尊として安置した
Img_2341
「狸の蓑山大明神」
この山の狸太三郎は 佐渡の三郎狸 淡路の芝衛独とともに日本三名狸といわれる
屋島寺住職の代がわりの時は 屋島合戦の模様を実演してみせたりしたというが 日清 日露の戦争に仲間をつれて出征して働いたあと 死んだという
本殿の横に祀られ 水商売の神となっている

高松市 2010・6月撮影

Img_2351

一宮寺(いちみやじ) 八三番札所

Img_2311





















Img_2312





















Img_2319


















本堂



本尊 聖観世音菩薩  山号 神ごう山  開基 義渕僧正

Img_2326
Img_2322













8世紀の初め義渕僧正によって創建された頃は大宝寺と号していた その後勅命により行基菩薩が創建したのが讃岐一宮の田村神社であり 寺はその別当寺となって一宮寺と改号した 本堂左手にある三基の宝塔は田村神社から移築されたもの
さらにその後 弘法大師が来錫して 立像の聖観世音菩薩を刻み本尊として安置し 行基菩薩が建立した堂塔を補修 伽藍を再建 そして八三番札所と定めた しかし兵火に遭う 再興され神仏が分けられて独立寺となった 境内には考霊天皇 百襲姫 吉備津彦命などの宝塔がある

高松市 2010・6月撮影